マルク・プティジャン監督作品
『ヒロシマ、そしてフクシマ』
マルク・プティジャン監督作品
『ヒロシマ、そしてフクシマ』
◎ 監督について
フランス版ウイキペディアの要約
マルク・プティジャン Marc Petitjean:1951生まれのフランスの写真家・映画監督。パリ装飾芸術学校でビデオ制作を教えている。
映像作家として、最初は美術関係のドキュメンタリーを制作したが、2000年代に入ると社会問題を扱うようになる。『警察学校(2001)』、『核の傷 (2006)』等。
→ フランス語原文
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◎ 監督と肥田先生
肥田先生の著書『広島の消える日』は2002年に仏訳されました。プティジャン監督はパリの古書店でふと見かけたこの本を読んで深く感動し、著者の姿を映画に撮ろうと決意します。2005年日本に飛んで、あらかじめ手紙を出していた肥田先生に「会いたい」と連絡すると、先生は「近く墓参りに行く予定があるので、会うなら私の郷里、中津川の駅のホームで」と返事をします。「 あの時はほんとにびっくりしましたよ。 まさか来るとは思わなかった見知らぬ外人が、通訳を連れて本当に駅にいたので ... 」、私が後にうかがった先生のお言葉です。そしてさっそく肥田家の墓地の前で撮影が始まりました。これがプティジャン監督と肥田先生の初めての出会いでした。
その後監督が先生に案内されて広島に行ったり、さいたま市の肥田家でインタビューをしたりしているうちに、このフランス人は肥田先生から全幅の信頼を受けるようになりました。こうして2006年に映画「核の傷:肥田舜太郎医師と内部被曝」が完成しました。
2011年の福島第一原発事故の後、プティジャン監督はこの大惨事を肥田先生がどう捉えるいるか を映画化しなければならないと考え、2012年に2回、2013に1回来日して311以降の肥田先生の言動の有様を撮影しました。こうして出来上がったのが『ヒロシマ、そしてフクシマ』です。
◎ もう一人のプティジャン
→マルク・プティジャンのホーム・ページ (クリックすると新規ウインドウが開きます)
フランス語のサイトですが、とてもしゃれていて、動画が美しいです。
DE HIROSHIMA À FUKUSHIMA(ヒロシマ、そしてフクシマ)、BLESSURE ATOMIQUES(核の傷)、TRÉSOR VIVANT(人間国宝)、TOKYO FREETERS(トウキョウ・フリーターズ)、NUIT D’ÉTÉ(夏の夜)
は日本を扱った作品です。
ちなみに、このプティジャンと言う名前に心当たりのある方もおられるかと思います。
1865年に長崎の大浦天主堂を設計・建設したフランス人のベルナール・プティジャン神父は、このマルク・プティジャン監督の祖先の一人です。大浦天主堂はフランス人居留民のための教会として建てられたのですが、プティジャン神父は教会をあえて日本人にも開放しました。するとある日、一人の老婆がおずおずと神父に近づいて、「私も同じ信仰です。サンタ・マリアの御像はどこ?」と囁きました。これが隠れキリシタンの信徒発見のきっかけとなったのです。神父はその後積極的に多くの隠れキリシタンの探索につとめ、その経過を詳しくヨーロッパに報告しました。江戸幕府のキリスト教禁令は明治政府になっても引き継がれましたが、プティジャン神父達の世界に向けてのアッピールが功を奏し、明治政府は欧米諸国からの圧力に屈して1873年に禁令を解除しました。
このようにプティジャン一族は二度にわたり広い意味での日仏の文化交流に貢献したのです。
◎ 私とプティジャン監督
私が初めてプティジャン監督に会ったのは、2012年6月澁谷の映画館アップリンクでの監督の前作『核の傷』の上映の際でした。その日は監督のトークショウ付きでした。映画が非常に優れていたので、私は会の終了後監督に話しかけて感想を述べました。監督が「今度は3・11以降の肥田先生の活動を撮影するつもりだ、ついては日本における反原発の運動の現状を知りたい」と言うので、私はその3日後に行われた「福島の女たちの原発再稼働阻止官邸前ダイイン(犠牲者を模して死んだふりをする抗議行動)」の現場に彼を案内しました。当時は反原発の気運が激しく燃え上がっている最中でした。
その日、おおぜいの参加者と共にダイインの行事が始まるのを首相官邸前の舗道の上で待っているうち、ふとプティジャン監督の姿が見えなくなりました。どこに迷ったのかな、と心配していると、カメラを担いで上気した顔の監督が再び姿を現しました。私たちがぼんやりつっ立っている間に、彼は福島の女性達の後を追って内閣府の内部に入り込み、中の様子をちゃっかりカメラにおさめたのであしった。日本の報道陣は誰一人そこに入ることができませんでした。『ヒロシマ、そしてフクシマ』の中での、いきり立った福島の女達と担当役人との応酬の場面はなかなか迫力があります。私は、日本語が全く分からないながら状況を直ちに察知してすばやく動く、監督のジャーナリストとしての勘の鋭さに驚きました。
この時が監督のこの映画のための第一回目の来日でした。一週間ほどの滞在で、いわき市での肥田先生を撮ってから監督はフランスに帰りました。
次に監督が来日したのは同じ年の10月、肥田先生の沖縄での講演会の際でした。たまたまそれはオスプレーが初めて沖縄にやってくる日でした。先生はその着陸の様子を見守るために普天間基地まで行かれました。この場面は残念ながら完成した映画には取り入れられていません。テーマが拡散するのを嫌った監督がやむなく削ったのでしょう。その代わりに琉球大学の研究室の場面があります。監督が来日する直前、ル・モンド紙に、放射能によって福島の蝶に奇形が生じ、しかもその奇形が遺伝することを示す琉球大学での研究が大きく紹介されていました。あらかじめこれを読んでいた監督が琉球大学に行って研究者の野原千代さんを撮影する際、私も同行してマイク持ちの助手をつとめたりしました。この野原さんは昨年10月心不全で亡くなりました。何度も福島に足を運んだための被曝が原因だと推測されますが、それを実証することは困難です。肥田先生のおっしゃる内部被曝の厄介さがここにあります。
映画はその年内に出来上がる予定でしたが、年を越しても完成の知らせがありません。問い合わせると、案の定資金不足で編集が行き詰まっているとのことでした。その頃日本ではクラウドファンディングというインターネットを用いた資金調達の方式が話題になっていました。これを利用すれば資金の援助が出来ると考えた私は、2013 年6月にMotionGalleryというシステムの上でプロジェクトを立ち上げました。4ヶ月の期限内にこの映画の制作意図に共鳴す方々からの350万円を越える支援が集まりました。そのお陰で編集作業は再開されました。