靖国神社について

 


私は1935年生まれ、日本敗戦の時は10歳でした。従って戦時中の軍国主義の時代の空気は深く吸っています。

当時の私達にとって靖国神社はまさに軍国主義の中心核でした。内心ではいやいやながら戦争にかり出された日本人男性は、戦場において不条理で無残な死を迎えたとき、「国のため、天皇のため」に殉死した「英霊」と見なされ神となって靖国神社に祀られる、ということにせめてもの救いを見出さざるを得なかったのです。


私の父山本幡男も靖国に祀られていることになっています。


父は1944年、つまり敗戦の一年前、私達が旧満州国の首都新京〔現在の長春)で暮らしていたとき赤紙が来て36歳で兵隊に取られました。「俺はこれから地獄に行くのだ」と母には言い残したそうです。そして敗戦後はシベリアに抑留され、9年目にハバロフスクの収容所で病死しました。本籍地の福岡県知事から届いた公報の死亡告知書では、戦病死と記されています。従って自動的に「英霊」となって靖国神社に祀られるのです。

父は兵隊にとられる前までは満鉄の調査部に勤めていました。そのため一般の日本人のように新聞やラジオの報道に騙されることなく、世界の情勢をはっきりと知っていました。こんな無謀な戦争をして日本はいずれ負けると、家庭内では常に軍国主義を呪っていました。

小学校(当時は国民学校と呼ばれていました)の先生から「君達は毎日神棚を拝まなければならない」と言われた私は、母にこっそりと「どうして家には神棚がないの?神棚を買って!」と頼んだら、父が聞きつけて「バカ者め!我が家には神棚なんて絶対置かせないぞ!」と怒鳴られました。(父に関しては、辺見じゅん著「収容所から来た遺書(文春文庫)」をご参照下さい。http://amzn.to/1jOfTpw


その様な父が靖国神社に東条英機たちと一緒に祀られるなんて全くのナンセンスです。母は父の名を靖国神社の「英霊」から外してくださいと当時の厚生省に頼んだのですが、「靖国に祀られる神々は一体となって一つの座布団の上に座っているので分祀することは出来ない」という珍妙な理屈で断られました。


戦後の靖国神社は国家管理を離れ、単なる一個の宗教法人として位置づけられているはずです。

現行憲法のもとにおける「政教分離」や「信教の自由」の原則からすれば、この神社はごく一部の信徒のためだけの、なんら特別の意味を持たない普通の神社であるべきはずなのですが、日本を再び戦争をする国家にさせようと企む人達にとっては「国のために命を捨てさせる」ための装置としてこの神社は象徴的な大きな意味をもつものなのでしょう。


旧満州で育った私は、日本人が中国人をどんなにひどく差別していたかを身にしみて知っています。いわゆる「大東亜戦争」はアジアの国々を欧米の支配から解放するための正義の戦争だと建前上はされていました。しかし「五族協和の新満州国」とうたっても、満州にいる日本人は中国人を同じ人間とは決して見ていませんでした。町を走る市内電車は普通の日本人用のと「満人」専用のとはっきり区別されていました。

私の父はそうした差別意識とは無関係の人間でした。あるとき父と電車の停留所にいました。どういうわけか普通の電車がなかなか来ません。やってきた満人専用車に「これに乗ろう」と言って父がわたしの手をぐっと引いたとき、私はびっくり仰天しました。日本人が中国人の電車に乗るなどという屈辱は当時の私には堪えられなかったのです。ぎゅうぎゅう詰めで悪臭に満ちた車内で私は泣きたいのを必死にこらえていました。


このように軍国主義時代の日本人から不当な目に遭わされてきた中国の人びとが、軍国主義の象徴ともみえる靖国神社のあり方に関し非常に神経を尖らすのは私には当然のことと思われます。

安倍首相が強引にも推し進めようとしている日本の軍事化は、何としてでも押しとどめなければなりません。


「現在の日本の平和はこのあいだの大戦の多数の戦死者の尊い犠牲のお陰である」というまことしやかな理屈のもとに、英霊を祀る靖国神社の存在を正当化しようとする甘言を私は全く認めません。戦争をもっと早く終結させさえすれば、犠牲はもっと少なく、平和はもっと早く到来したのです。