山本幡男という人間

 

魂の声

山本顕一

(1)


 1986年夏、読売新聞社と角川書店によって共同企画された「昭和の遺書」の募集に応じて全国から寄せられた900点にも及ぶ書簡・手記・日記の中から、書物に収録される372点を、編者の辺見じゅんさんはさんざん苦心して選び終えられた。ほっとなさった辺見さんは、一息ついたあと、前々から何か気になっている一つの箱を、念のために開けてみられた。それは、募集の条件に合致せず、あらかじめ没と決められていた何点かの応募文書が投げ込まれていた箱であった。

 のぞくと一通の分厚い封書が目に止まった。収められていたのは4通の長文の遺書で、短い前書きが添えられていた。


 「敬愛する佐藤健雄先輩はじめ、この収容所において親しき交わりを得たる良き人々よ! この遺書はひま有る毎に暗誦、復誦されて、一字、一句も漏らさざるよう貴下の心肝に銘じ給え。心ある人々よ、必ずこの遺書を私の家庭に伝え給え。7月2日」


 何か常ならぬものを感じ取られた辺見さんは、これらの遺書に次々と目を通された。そこには大きな驚きが待っていた。


(2)


 1954年7月1日深夜。ハバロフスク郊外のソ連邦矯正労働収容所第21分所内の病室。

 一人の男がすさまじい形相で鉛筆を握っている。痩せ衰え、皮膚は老人のように艶を失っているが、首だけは風船玉のように大きく膨らみ、患部が破れ、そこから異臭すら漂っている。「喉頭癌性肉腫」が末期に達しているのである。

 男の名は山本幡男、45歳。ソ連の裁判で戦犯25年の刑を言い渡された山本は、日本敗戦後九年たったこの時まで、ここシベリアの収容所で帰国の日を待ち続けてきた。判決の理由はソ連国内法の刑法第58条の「資本主義幇助罪」と「スパイ罪」であった。東京外語でロシア語を学んだ山本は満鉄調査部に勤務し、軍隊に召集されてからはハルピンの特務機関に回された。これが「国家反逆」の罪(外国人であるのに!)に問われたのである。学生時代からロシアびいきで、戦時中もずっと親ソ連的であった山本が、そのソ連からこの様な手ひどい仕打ちを受けるとは誠に不条理な歴史の悲劇である。

 しかし山本幡男は逆運に簡単に挫けるような人間ではなかった。どんなに絶望的な状況にあっても常に光を前途に見つけ出そうとするのであった。ロシア語が堪能なこともあってハバロフスクの収容所の文化部長に任じられていた山本は、すさんだ人々の心に明るい希望を抱かせようと腐心していた。「アムール句会」という会を主催して人々に励みを与えたりしていたが、1953年春頃から喉に異変が生じ、翌年の5月には声が出せなくなり、筆談でしか会話が出来なくなった。この頃から人々は、深く思考する人間であった山本に遺書を書かせることを考えるようになった。「遺書のことをもちだすのは本人に死を告げることにも等しいのではないか」とためらわれたが、かつての満鉄の上司佐藤健雄氏が決断して、「万一のことを考えて、家族に伝える事があれば書いてくれ」と頼むと、山本は黙って筆談ノートに「明日」と記した。

 一人きりになると、意を決してまずノートに「本文」と書きつける。


「到頭ハバロフスクの病院の一隅で遺書を書かねばならなくなった。

 鉛筆をとるのも涙。書き綴るのも涙。どうしてまともにこの書が綴れよう!

 病床生活永くして1年3ヵ月にわたり、衰弱甚だしきを以て、意の如く筆も運ばず、思ったことの百分の一も書き現せないのが何よりも残念。

 皆さんに対する私のこの限り無い、無量の愛情とあはれみのこころを一体どうして筆で現すことができようか? 唯無言の涙、抱擁、握手によって辛うじてその一部を現し得るに過ぎないであらうが、ここは日本を去る数千粁、どうしてそれが出来ようぞ. . . 」


 夜になる。同胞はみな寝静まっている。がらんとした室内の恐ろしいほどの静寂の中、枕元のわずかな明かりを頼りに一字一字、気力をふりしぼって書いて行く。ふつふつとこみ上げる万感の思いを移し伝えるには腕の力はあまりにも弱い。やっとの思いで「本文」約七〇〇文字がノートに刻みこまれた。続いて、優しい「お母さまへ」(1000字)、たくましい「妻へ」(700字)の決別の言葉。もう夜半はとっくに過ぎている。最後に「子供等へ」(1100字)。


「君たちに会へずに死ぬることが一番悲しい。

 成長した姿が写真ではなく、実際に一目みたかった。お母さんよりも、モジミよりも、私の夢には君たちの姿が多く現れた。それも幼かった日の姿で・・・・・・ああ何といふ可愛いい子供の時代!

・・・・・(中略)・・・・・

さて、君たちは、之から人生の荒波と闘って生きてゆくのだが、君たちはどんな辛い日があらうとも光輝ある日本民族の一人として生まれたことに感謝することを忘れてはならぬ。日本民族こそは将来、東洋、西洋の文化を融合する唯一の媒介者、東洋のすぐれたる道義の文化 ---- 人道主義を以て世界文化再建設に寄与し得る唯一の民族である。この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ。

 また君たちはどんなに辛い日があらうとも、人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するといふ進歩的な理想を忘れてはならぬ。偏頗で驕傲な思想に迷ってはならぬ。どこまでも真面目な、人道に基く自由、博愛、幸福、正義の道を進んで呉れ。

 最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである。友だちと交際する場合にも、社会的に活動する場合にも、生活のあらゆる部面において、この言葉を片時も忘れてはならぬぞ。

・・・・・(中略)・・・・・

君等が立派に成長してゆくであろうことを思ひつつ、私は満足して死んでゆく。どうか健康に幸福に生きてくれ。長生きしておくれ。


最後に自作の戒名

  久遠院法光日眼信士

                            山本幡男

1954年7月2日 」                                     


 夜も白みはじめる頃になって、やっと山本は鉛筆を置くことができた。


 翌日ノート15頁にびっしり書かれた遺書を仲間に手渡した後も、山本はしぶとく生き続けた。8月15日には乱れた弱々しい字で紙切れにこう書きつけている。


 「死ノウト思ッテモ死ネナイ スベテハ天命デス 遺書ハ万一ノ場合ノコト

小生勿論生キントシテ闘争シテイル 希ミハ有ルノデスカラ決シテ100%悲観セズヤッテユキマショウ 」


 山本が死んだのはそれから10日経った8月25日の午後1時半、仲間達はみな作業に出ていて、日本人は誰もそばにいなかった。


 瀕死の病人が一晩で書き上げたこの原稿用紙約10枚分にもわたる長文の遺書を、そのままの形で家族に届けることは問題外であった。ソ連側は文字で書いたものを持ち出すことをスパイ行為と見なして厳禁していたからである。帰国の船に乗る寸前に隠し持った紙が見つかり、重罪を言い渡されてシベリアに送り返された者は何人もいた。

 仲間達が集まって、山本が遺書の前書きで懇請した通り、手分けして暗記することが決められた。こうして山本幡男の悲痛な魂の叫びは、仲間達の脳髄に深く刻まれて遺家族に届けられることになったのである。


(3)


 この文章を書いている私、山本顕一は実は山本幡男の長男で、この遺書が宛てられた当の本人である。受け取ったのは大学三年生の時であった。実に重い遺書で、私の一生は父から託された課題、「人道主義を以て世界文化再建設に寄与するという歴史的使命」をいかにして果たすかという難題との苦闘の一生であった。そして現在78歳の老齢に達しながら、何らの文化創造にも参加出来ていないという誠にお恥ずかしい有様である。

 遺書は全く私的なものであるはずであったが、その存在は少しは世に知られていた。朝日新聞に一部が紹介されたこともあり、TBSのラジオドキュメンタリーで遺言暗記のエピソードが放送されたこともあった。そして1961年夏、シベリア墓参が初めて可能になった際、第1回目の墓参団に参加した私の母のところに、ある小さな実話週刊誌が取材に来て、父の遺書の一部を紙面で紹介するということがあった。

 25年の時が流れて冒頭の「昭和の遺書」の募集があったとき、応募の条件が未発表のものに限るとされていたので、私たちは応募を考えなかった。遺書は何よりも個人にのみ関わるもので、世に発表する必要はないと思っていたからでもあった。しかしある方の非常に強い勧めがあったので、母は締め切り間際に「これは未発表ではありませんが」という断り書きを添えて読売新聞社に遺書のコピーを送った。それは当然のことながら没の箱の中に投じられ、ぎりぎりの瀬戸際になってはじめて辺見じゅんさんの目に触れることとなったのである。辺見さんはこれを最後の収録遺書となされた。


(4)


 山本幡男という人間が実在していたことを知ると、辺見じゅんさんは直ちに私の母山本モジミのところにたずねてこられた。そして、遺書を暗記して届けて下さった元シベリア抑留者の方々の直筆をご覧になっているうちに、この遺書にまつわるすべてを一冊の本にまとめ上げようと決意なさったのである。辺見さんはその後私の職場まで来られて、父の遺書について本をお書きになることの了承を求められた。私は遺書は個人的なものだからそっとしておいて欲しいと最初にはお願いしたが、辺見さんは「この遺書の内容は日本人全体に宛てられたものです。私はお父様のそのご意志に応えたいのです」と強くおっしゃった。

 それから3年間、辺見さんはすさまじい熱意を込めて取材と執筆に取り組まれた。山本幡男を少しでも知る人をたずねて全国を回られた。シベリア抑留に関するあらゆる資料に目を通さられた。後で直接ご本人から私がうかがったところによれば、集められた材料、書きためられたメモの10分の1も出来上がった著書の中では活用されていないそうである。内容が豊富であるばかりでない。1989年6月に出版された『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』は文章と構成が素晴らしかった。事実の重みがひしひしと伝わってきて、読む人に涙を流させずにはおかなかった。はたしてこの本は「大宅壮一ノンフィクション賞」と「講談社ノンフィクション賞」という2つの大賞の栄冠に輝くことになったのである。

 大きな感動は大きな反響を生み出す。辺見さんのこの本に心を打たれた人々は、それをもとにテレビドキュメンタリーやテレビドラマを制作し、ミュージカルに翻案した。また俳優座をはじめとする4つの劇団が、4種類の脚本でこのラーゲリのドラマを舞台に乗せた。中でも平田満さんが山本幡男の役を演じて下さった、ふたくちつよし脚色・演出の『ダモイ』は年を重ねて何度も再演された。

 父を知るすべての人にお会いし、遺書にまつわる深い事情を探求することは、本来は私がなすべき仕事であるのに、私はそれを怠って来た。辺見さんがその難業を代わりに引き受けて下さったのである。長い間の息子の不甲斐なさにしびれを切らした山本幡男の魂は、その声を世に伝えてもらうべく、辺見じゅんさんに取りすがったのであろうか。辺見さんがいらっしゃらなかったら、父の遺書は世に知られることもなく、私たち兄弟の死とともに、空しく無に消えてしまうところだったであろう。

 

◎ ウィキペディアの冒頭

◎ 「とやま文学」30号「特集 追悼 辺見じゅん先生」(2012年3月)より

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山本 幡男(やまもと はたお、1908年〈明治41年〉9月10日 - 1954年〈昭和29年〉8月25日)は、第二次世界大戦終結後に旧ソビエト連邦によるシベリア抑留を経験した日本人の1人。日本への帰国が絶望的な状況下において、強制収容所(ラーゲリ)内の日本人俘虜たちに日本の文化と帰国への希望を広め、一同の精神的支柱になり続けた。自身は帰国の夢が叶わず収容所内で病死したが、死の間際に家族宛ての遺書を遺しており、同志たちがその文面を暗記することで日本の遺族へ届けたことでも知られる。島根県隠岐郡西ノ島町出身。