東京の六地蔵さん(1)
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最終更新日:2020.01.30


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六地蔵像容の由来
東京には約3000の寺院があるといいます。そのうち何軒の寺院で六地蔵に会えるのでしょうか。六地蔵のあるお寺を求めて、都内の寺院を一つ一つ訪ねてみようと思います。

六地蔵が天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道に迷う衆生を救ってくださるという説は、鎌倉時代に記された日本初の仏教通史「元亨釈書」の<惟高伝>に
「周州神官惟高、長徳四(998)年、病につき六日をすぎにわかに気絶し、たちまち曠野におもむき、迷って道を知らず、時に六沙門儀相𠑊好にして徐々に来る。
一人は香炉を持ち、
一人は合掌し、
一人は宝珠を持ち
一人は錫杖を持ち、
一人は華箱を持ち、
一人は念珠を持ち、
そのなか念珠を持ちたるひとの曰く『汝我らを知るや否や。我らは六地蔵尊なり。六趣衆生を救はんがため、六種の身を現ず。汝巫属といへども久しく我に帰するなり。これをもって汝を本土に帰らしむ。汝かならず我が像を作り恭敬をいたせ』と。」
とあり、惟高の話は「今昔物語」の<地蔵菩薩の霊験譚>の中の話としても知られています。
なお、「元亨釈書」の著者は臨済宗の僧、虎関師錬(1278年 - 1346年)、惟高 は平安時代中期・周防玉祖(たまのおや)神社の宮司です。
また、世界大百科事典の「六地蔵」の項では
六道のそれぞれにあって衆生を救済するという六体の地蔵菩薩。六地蔵の信仰は,中国などには先例がなく,六道思想の発達に刺激されて日本で形成されたものである。六地蔵の始源には諸説あるが,11世紀中ごろの実睿(じつえい)撰《地蔵菩薩霊験記》のなかで,〈六道の衆生のために六種の形を現せり〉として各尊の持物や印を説明しているのが,六地蔵に関する最初の具体的記述である。
となっています。
「地蔵菩薩霊験記」も平安時代の仏教説話集で地獄から蘇生した話などの地蔵霊験譚が語られているようですが、未読なので〈六道の衆生のために六種の形を現せり〉の中身がわかりません。
さらに、平安時代前期の天台宗の僧・安然が日本語訳にしたとも言われる「蓮華三昧経」には
地獄対応の地蔵は人頭幢を、
餓鬼対応の地蔵は蓮華の上に三胡寶殊を、
畜生道対応の地蔵は蓮華の上に輪寶を、
修羅道対応の地蔵は蓮華の上に刀を、
人道対応の地蔵は蓮華のうえに梵號を、
天道対応の地蔵は蓮華の上に羯磨を持つ
と六道対応と持物が具体的に記されているようです。
ずっと新しくなって、同じ「蓮華三昧経」を参考にした「佛像図鑑」(昭和五年刊)では
檀陀地蔵は地獄道の能化、手に人頭幢を持す。
宝珠地蔵は餓鬼道の能化、手に宝珠を持す。
宝印地蔵は畜生道の能化、如意宝珠を持す。
持地地蔵は修羅道の能化、錫杖を持つ。
除蓋障地蔵は人道の能化なり、宝珠を持つ。
日光地蔵は天道の能化なり、錫杖を持す。
と六地蔵名と対応六道と持物の三要素がそれぞれセットとして説明されています。
その他にも六地蔵の名前、六道対応、持物・印について記述された書物がいくつかあります。
「地蔵菩薩発心因縁十王経」地獄において亡者の審判を行う10尊の、いわゆる裁判官的な尊格である十王について記した書。
「地蔵十輪経」唐の玄奘が訳した『大乗大集地蔵十輪経』のこと。
「大日経疏」8世紀初めに成立。真言密教の理論書。
「覺禪鈔」鎌倉初期、真言宗僧覚禅(1143〜1213?)が著した密教の図像や作法を記した書。
「與願金剛地蔵菩薩秘記」南北朝期に良助法親王が記した書。
「臨済宗聖典」?。1931年刊
「廣度六道眾生」
などです。
しかしながら、どの仏像にもあるべき像容を記したお手本(儀軌)があるのですが、六地蔵には確たる儀軌と言えるものがないようです。
また六道対応と地蔵名が儀軌に合わないものも多いので、像容(持物や印)から地蔵名を類推することはほとんど不可能と言えます。
結局、六地蔵に関して何も判らないままですが、一応、ここまで調べた限りでの地蔵名の組合せを「六道と地蔵名」に掲載してみました。